わたしはあれからスロヴェニア語、デンマーク語、スウェーデン語、ノルウェー語、ポーランド語、ラテン語、近代ギリシア語と古代ギリシア語を学びました。で、今は総計十五カ国語を話せます。
シュリーマン トロイア発掘者の生涯 73ページ下段より
地所についてのすべてのやりとりは、わたしは、自分でトルコ語でやるつもりです。ダーダルネスやトロアスの連中は、三週間まえには一言も分からなかったわたしが、このことばをしゃべるのを聞いて、みんなびっくりすることでしょう。
シュリーマン トロイア発掘者の生涯 119ページ下段より
今回は多言語学習を志す方であれば一度や二度は耳にしたであろう語学の達人、ハインリヒ・シュリーマンの語学学習法について考えます。
ハインリヒ・シュリーマンについてざっくり説明すると、貧しい身から多言語を駆使して瞬く間に大富豪となり、事業を清算した後は誰も存在を信じていなかったギリシアのトロヤ文明の遺跡を発掘して世界史に名を残したスゴイ人です。
ヨハン・ルートヴィヒ・ハインリヒ・ユリウス・シュリーマン(ドイツ語: Johann Ludwig Heinrich Julius Schliemann, 1822年1月6日 - 1890年12月26日)は、ドイツの考古学者、実業家。ギリシア神話に登場する伝説の都市トロイアを発掘した。
Wikipedia(2019/9/24現在)より
彼が大成功を収めた要因はもちろん複数あるのですが、その中でも間違いなく大きな比重を占めたであろう要素はその類い希なる多言語能力でした。
この夢のようなシュリーマンの語学習得方法を私達の外国語学習に取り入れることができないか?という点を詳しく考察していきたいと思います。
シュリーマンの語学学習法自体は様々なWebサイトで取り上げられている定番の話題ではあるのですが、私が見た限りでは、それらのサイトのほとんどは岩波文庫の「古代への情熱(シュリーマン著)」の一部を参照した記事でした。この記事では白水社の「シュリーマン トロイア発掘者の生涯(エーミール・ルートヴィヒ著)」に記載されている詳細情報なども参照しつつ、各種の学習方法についてより深く掘り下げていきたいと思います。
なお、今回の記事は引用文が多いのですが、原文ではひらがなであったところが漢字に変換されたり、句読点が抜けたりしている箇所がそこそこあると思います。内容が正確に伝わればそれで良いということでその辺の細かなところはあまり気にしていませんのでご了承ください。
まずは学習方法の全体像から把握していきましょう。
シュリーマン式語学学習法の具体的なステップ
まず、シュリーマンの学習方法が簡潔にまとめられている部分を引用します。
この簡単な方法はさしずめ次のようなものだった。非常にたくさんの分量を音読すること、短文を訳してみること(筆者注:後述しますがここは正しくない可能性あり)、毎日授業を欠かさないこと、興味を覚えた問題について常に作文を書くこと、これを先生の指導によって訂正し暗記すること、前日直されたものを次の時間に暗唱してみせるということだった。
シュリーマン トロイア発掘者の生涯 38ページ上段より
わずか4、5行程度でサラッと書かれている上、そこまで特別なことはなく、「これだけ?」と思ってしまいそうではあります。一つずつ見て行きましょう。
前提:母語がちゃんとできる
上記の引用文には書かなかったのですが、外国語の勉強以前の前提条件として、母語の運用能力があります。以下の引用をご覧ください。
...外国へ行きたくてうずうずしているというのに、彼の覚えた最初のものは何であったか。
≪ドイツ語だ。ドイツ語を正しくしゃべり、正しく書くと言うことをわたしはまず学んだ。≫
それから20時間で国語のきれいな書き方を学び、そのうえではじめてオランダ語と英語の学習に移ったのである。
シュリーマン トロイア発掘者の生涯 38ページ上段より
まずは母語が全てのベースであるということです。外国語の能力は母語の能力を超えることがないため、母語がろくにできなければ外国語能力も知れてしまうということです。シュリーマンは昔の苦労人であまり教育を受けられなかったから母語の勉強が必要だったのであり、今の日本人には関係ないよ、と思う方もいるかと思います。が、どうもそういうわけでもないようです。シュリーマンとは直接関係ありませんが、以下の引用をご覧ください。
...日本語の文章表現力の不足している人は、翻訳の仕事をするにあたっては手の施しようがありません。通訳やガイド系の仕事など、他の分野を目指した方が良いと思います(その方が向いているということでは決してありません。そちらの分野であればわずかに敗者復活戦を勝ち上がる可能性があるという程度です)。というのは、私の経験では二十五歳以上の人で、日本語の表現センスが大幅に改善された例をみないからです。断言が過ぎているかもしれませんが、逆にそういうハンディを克服した人がいたら、ぜひ教えていただきたいくらいです。
猪浦道夫著「語学で身を立てる」 21ページより
つまり、日本語がガタガタの人は外国語をやってもさらにガタガタにしかならないということです。日本語で本も新聞も読まない人が英語ではすらすら読めるようになることはありませんし、日常会話語彙の大部分が「マジ?ウッソー!キモーい!」しか使わない人が英語で急に繊細な表現を使い始めるということはないわけです。
そんなわけで、外国語の勉強を考えている方は自分の日本語能力が問題のない水準に達しているか確認し、必要に応じて日本語をある程度やり直してから取り組む方が効率が良いかもしれません。
音読
...英国教会の礼拝にいつも二回はかよって説教を傾聴し、その一語一語を低く口まねした。どのような使い走りにも、雨が降ってももちろん、一冊の本を手に持ってそれから何かを暗記した。何も読まずに郵便局で待っていたことはなかった。こうして私はしだいに記憶力を強めて...(中略)...印刷された英語の散文二十ページをもしあらかじめ三回注意して通読していたならば、文字通りに暗唱することができた。
古代への情熱 26ページより
...私は一人の貧乏なユダヤ人を一週四フランでやとった。彼は毎朝二時間私の所に来て私のロシア語の暗唱を聞かねばならなかったが、彼はそれの一つづりも知らないのであった。...(中略)...他の間借り人達は私の声高い暗唱に悩まされて家主に苦情をいい、私はロシア語の勉強中に二回住居を変えねばならない始末であった。
古代への情熱 28ページより
今の時代、外国語を覚えるには音読が有効な学習手段であるということは皆さんも聞いたことがあるかと思いますが、ここまで徹底して出来る人はどれだけいるでしょうか? 外国だと割と独り言に寛容なイメージもありますが、日本だと外で一人でブツブツ言っていたらほぼ確実に危ない人だと思われてしまいます。私なんて黙って道歩いてるだけでも職質されるので、外で音読するのは恐ろしくて無理です。
自分の部屋やカラオケボックスで音読をするのは、周りの目もないし一見何の問題もなさそうですが、私が実践したところ、これまた全く問題なしというわけには行きませんでした。
これは完全に私個人の問題なのかもしれないのですが、外国語の音読ってしんどいのです。頑張って音読していると、大体15~30分くらいで眠気と空腹感がドバッと押し寄せてきてそのまま倒れて寝てしまいます。何しろ普段口にしない言葉を話して顔の筋肉に結構な負担をかけている上に、慣れない文字を目で追ったり、フレーズを何も見ないで思い出そうとしたりと脳にも相当な負荷がかかります。音読した声は自分の耳にも入りますし、神経をかなり動員する作業です。
こうして、私の「ただ読むだけなら簡単じゃないか」という甘い読みは脆くも崩れ去りました。普段から脳に負担がかかっている人なら問題ないのかもしれませんが、のほほんと生きてる私にはかなりキツい方法でした。ただ、キツい分記憶には残ります。筋トレと同じように毎日少しずつ負荷を増やしていくようにすると良いかも知れません。
翻訳の是非
さて、学習方法を列挙した引用文中に「 短文を訳してみること 」とあるのですが、「古代への情熱」には「けっして翻訳しないこと」と完全に逆の事が書かれています。これはドイツ語原文の
"keine Uebersetzungen macht(翻訳しないこと)"
が
"kleine Uebersetzungen macht(少し翻訳すること)"
と誤って読まれたとか誤植だったとか諸説あるようなのですが、今手元にあるEBOOKS.AT Verlag Klagenfurtにより出版された"Heinrich Schliemann's Selbstbiographie"には前者が記載されているので、ここでは「翻訳しないこと」をオリジナルとして考えて行きます。
2023年4月14日追記:
「決して翻訳しないこと」の方が正しいようです。詳細は以下の記事をご覧ください。
この「翻訳」というのが一体「学習言語→母語」の翻訳なのか「母語→学習言語」の翻訳なのかは記載がないので不明ですが、シュリーマンが学習言語を書いて読んで覚えるという学習スタイルだった事から考えて、おそらく母語訳の方を示していると考えられます。
確かに英語が出来る人は往々にして英英辞典の使用を推奨していますし、外国語は外国語のまま理解するのが鉄則なので(わざわざ日本語訳してたら会話についていけないため)、これも理解出来ます。また、仮に「短文を訳してみること」の方が正しかったとしたら、この場合の「訳」は「母語→学習言語」となるでしょう。
外国語を学習するとき、もちろん最初は何もわからないので単語の意味を母語で調べたりすることは必要ですが、意味が分かったらその文章をまるごと飲み込んで、いちいち母語訳を書いたりするなということかと思われます。学校英語とかでもよく教科書の英文の日本語訳をノートに書いたりしましたが、 意味が分かったらそんなことしてないで本文をそのまま全部暗唱してしまえということです。
毎日の授業
シュリーマンはさらっと書いてますが、これがおそらく一番の鬼門です。まず、毎日語学の授業を入れたらスケジュールが吹っ飛ぶ人が多いでしょうし、一対一の個人レッスンであればオンラインレッスンを使ってもかなりの費用がかかります。シュリーマンの場合、仕事をしながらも毎日の授業時間を確保し、さらに僅かな年収の半分を語学学習のために費やしたというのだから並みの覚悟ではありません。ただ、彼の場合は習得するために一言語あたり半年以下の時間しかかからなかったため、週1回の英会話教室に何年も通うより実は安上がりなのかもしれません。
ただ、やはり問題なのは時間です。必要なのは授業を受ける時間だけでなく、上記の引用にもあるように「英語の散文20ページ暗記」するなどの予習、次項で詳しく述べる、次回提出する作文を書くことと、前回添削された作文を暗記する作業まであります。
このように、「金と時間が湯水のようにないと無理なんじゃねぇの!」と思ってしまいそうな凄まじい勉強法なのですが、これを一番貧乏な時代にやってのけたのがシュリーマンのシュリーマンたる所以でありましょう。
ちなみに、「古代への情熱」には「 毎日授業を欠かさないこと 」ではなく、「毎日一時間をあてること」と記載されています。後述する「教師がいない場合」の方法を現代の技術と合わせて組み合わせれば予算の問題は解決するかもしれません。
作文→添削→暗記
まず彼は自分の選んだ多くの単語を含む長い単語帳と、これらの単語を使った一連の文章を一枚の紙の上に教師に書いてもらい、一字一字文字を真似ながら全体を書き写し、それを暗記する。ついで彼は他の単語を含む二枚目の表を作成してもらい、一枚目の表を手本にして新しい単語をつくったり文章を構成したり、他の文章と組み合わすことを試み、それを教師に訂正してもらう。こうして彼は辞書を使いながら極めて急速に自分の語彙を増やし、ついにその文章がいよいよ長くかつ複雑となるまでそれを続けていくのである。
シュリーマン トロイア発掘者の生涯 38ページ上段より
作文に関する一番詳しい記述はここだと思うのですが、単語を一つずつ覚えたり文法項目を一つ一つ確認したりすることなく、ネイティブ教師が作った文章を意味が分かった状態で全部暗記してさらにそこから応用して作文を展開していくという方法でシュリーマンは驚異的な速度で外国語を覚えていったようです。
この他に本で覚えた文章の一部を改変したり組み合わせたりすることでさらに作れる文章は増えるので、基本単語や構文をこの方法で身につけ、同時に本を暗記することで広範な文章展開が可能となっていきます。学校で英語を勉強した立場からすると文法をろくに勉強しなくて大丈夫なのか?と思ってしまいそうですが、「古代への情熱」には以下のような記述があります。
私はそれが文法書に記入してあるか否かは知らないにしても、どのような文法の規則も知っている。そしてだれかが私のギリシア語の文章の誤りを発見するとしても、私はいつでもその表現方法が正確である証拠を私が使った言い回しの出所を古典作家から人に暗唱してみせることによってしめすことができると思う。
古代への情熱 36ページより
これは私が韓国ドラマを大量に見て韓国語を覚えたときに似たような事を感じました(下記事参照)。
韓国語を文法書でがっつり勉強したことはほとんどありませんが、ドラマ音声の中で全く聞いたことのない不自然な音やフレーズは何となく識別できる事が増えました。自分で口にする韓国語も実際に使われていたものが自然に出てくるようになったので、シュリーマンのこの方法はドラマを本に替えただけと考えて差し支えないと思います。
ちなみに私は今何故かウルドゥー語を勉強しています。テキストの例文を意味や文法解説と照らし合わせて全部音読暗記していく方法で1週間ほど勉強したところ、まだまだ流ちょうにはほど遠いものの、教科書の半分弱の文法項目を既に頭に入れることができたという実感があります。パキスタン人と直接話をしてみて、拙いながらも何とか通じました。一ヶ月くらい続ければ結構ペラペラになれるんじゃないかなと思ってます。作文についても、オンラインのウルドゥー語・英語辞書を使いながら覚えた例文の一部を入れ替える方式でそこそこ上手く行っています。
また、以前の記事で紹介した秋山燿平さんの勉強法でも「自作単語帳に既存例文を改変したオリジナルの例文を書き入れて暗記し、何度も使う」ことが推奨されています。
文章をまるごと暗記していけば、作文は一から文を組み上げる作業ではなく、既に完成している文章の一部を改変するだけの作業となるので、実はそこまで難しくはないのかもしれません。(むしろ作文する前に大量の例文を暗記する事の方が大変な気がします。)
ただ、ここでも問題となるのは大量の作文を逐一添削してくれる教師の存在かと思います。これに関しては後述します。
実践は可能なのか?
さて、ここまで見てきただけでも単純な原理とは裏腹に中々狂気的なものまで感じさせるシュリーマンの語学学習法ですが、そもそもこんな凄まじい気力と執念が必要な方法を我々が真似ることはできるのでしょうか。
気力や執念は人によるので中々扱いづらいのですが、ここでは「授業」や「作文」について考えている際に生じた「教師が見つからないor雇う金がない」場合はどうすればいいんですか問題について考えて行きたいと思います。
教師がいない場合
シュリーマンが教師なしで学習した言語として比較的詳細な勉強方法が説明されているのはロシア語です。シュリーマンが教師なしで文法書と一冊の訳本(テレマクの冒険)だけを頼りに実行した勉強法は以下の通り。
...わたしは教師なしに新しい勉強を始め、文法書を頼りに数日経たぬうちに既にロシア文字とその発音を頭にたたみこんだ。ここで昔の方法を再び採用して、短い作文や物語をつづり、それを暗記した。添削する人がいなかったから、それはもちろんひどい文章であった。しかし、テレマクのロシア語訳を暗記することによって、実際の練習で誤りをおかさないように努めた。...(中略)... 私は貧しいユダヤ人をひとり週4フランで雇い、毎晩二時間私のところに来させて、ひとこともわからないその彼に私のロシア語の朗読を聴かせることにした。
シュリーマン トロイア発掘者の生涯 41ページ上段より
とりあえず正しいかどうか分からないけど文法書を頼りに自分で作文してそれを覚えて、それと同時にロシア語の本の文章を暗記して自分の作文と比較対照することで誤った箇所を修正していくという方法だったと思われます。
今はシュリーマンの生きた時代と違い、音声はインターネットや教材CDで効くことができますし、各外国語の解説書、そしてGoogle翻訳や文法解説サイトなども充実しているので、教師なしで作文や発音を勉強するこの方法の難易度はかなり下がっているはずです。 誰かに語って聞かせるのも、わざわざ人を雇わなくてもインターネットで音声放送でもすれば何とかなります。 そして何より、ネットを経由してネイティブに直接聞くこともできる時代です。
語学学習アプリやSNSの活用法については別記事として以下にまとめました。
まとめ
ここまで見てきたとおり、シュリーマンはある外国語を身につけるために莫大な時間と授業料、そして気力と体力を短期間に集中投入しています。我々凡人が彼と同じペースで学習をすることは中々難しいと思いますが、方法自体はそんなに難しいものではありません。日本語対訳のついた外国語の本を一冊、毎日15分音読して最後まで丸暗記してみるとか(何ヶ月かかるか分かりませんが)、文法書にある例文を全部音読暗記してみるとか、洋画を見ているときに台詞を全部口真似してみるとか、少しずつやる分には簡単なことばかりです。
重要なのは単語や文法規則をノートに書いてバラバラに覚えようとすることではなく、とにかく文章を実際に聞いて声に出して反射的に口から出るように訓練することです。どちらかというと語学は勉強というよりサッカーのリフティング練習や野球の素振りとかそういった訓練・練習に近いものです。
まずは本棚にある適当な語学書を試しに1ページ暗唱するところから始めては如何でしょうか?
おまけ: 当ブログで紹介している、ネイティブから指導を受けられるオンラインサービス一覧
オンライン時代なのでネットを使えばシュリーマンよりは簡単に先生を見つけることができます。
参考文献
今回の記事を書くにあたり、以下の書籍のお世話になりました。
興味があれば一度全体を読んでみるのも面白いですよ。
特に「トロイア発掘者の生涯」の方は語学学習に関する内容がここで引用しきれなかったくらい色々書いてあるのでおススメです。
↓↓
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